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第5話 死んだはずの夫を連れ出した男

last update Petsa ng paglalathala: 2026-10-13 15:42:57

第5話 死んだはずの夫を連れ出した男

 木島から届いた三通目のメッセージを、詩織は県警本部の玄関前で何度読み返したか分からなかった。

『昨夜、ご主人が死んでいなかった理由を説明できます』

 意味を取り違える余地はほとんどなかった。

 貴之が昨夜、自宅で一度倒れたことを、木島は知っている。

 それだけではない。「死んでいなかった」という言い方は、誰かが貴之を死んだと思ったことまで前提にしている。

 その誰かは、自分しかいない。

 詩織はすぐには返信しなかった。警察署の敷地内で、警察に隠したい相手と連絡を取るという行為そのものが、誰かに見られているような錯覚を生んだ。

 だが、無視するという選択肢もなかった。

 木島が何を知っているのか分からないまま草壁に先を越されれば、詩織は自分の犯罪について説明する機会さえ失う。

『どこで話しますか』

 それだけを送った。

 返事は一分もしないうちに来た。

『駅東口のホテル一階にある喫茶店。十一時半。人目のある場所のほうが、奥様も安心でしょう』

 文章は丁寧だった。

 その丁寧さが、かえって気味が悪い。

 さらに木島は、

『一人で来てください。ただし、危険なことをするつもりはありません』

 と続けた。

 危険なことをする人間ほど、そのような前置きをするのではないかと思ったが、詩織はそれを書き返さなかった。

     *

 指定されたホテルは県警本部から電車で二駅だった。

 十一時二十七分、詩織が一階の喫茶店へ入ると、木島はすでに一番奥の席に座っていた。

 写真で見たより痩せている。

 三十九歳と聞けば納得できる年齢だが、目の下には浅い隈があり、髪にも少し白いものが混じっていた。濃紺のジャケットに灰色のシャツという服装はきちんとしているのに、襟元だけがわずかに乱れている。

 由香里が指した男と同じだった。

 木島は詩織を見つけると立ち上がった。

「真山さんですね。初めまして……と言うべきなんでしょうね」

 最後の一言が引っかかった。

「どういう意味ですか」

「いえ。ご主人から奥様のお話は何度も聞いていましたから、こちらだけが一方的に知っている状態でした。失礼な言い方になりました」

 木島は向かいの椅子を勧めた。

 詩織は座ったが、コートは脱がなかった。

「警察があなたと連絡を取ろうとしていました」

「知っています」

「では、どうして出ないんですか」

「今朝から、事情を整理していました。警察にはこのあと連絡するつもりです」

「私には先に連絡したのに?」

 木島は答える前に、テーブルに置かれた水を一口飲んだ。

「奥様に確認しなければならないことがありました」

「確認?」

「はい。ただ、その前に昨夜のことを話します。そのほうが公平でしょう」

 注文を取りに来た店員に、木島はブレンドコーヒーを頼んだ。詩織は何も欲しくなかったが、注文しないまま座っているのも目立つ気がして紅茶を頼んだ。

 店員が離れるまで、木島は口を開かなかった。

「昨夜、私は真山さん――ご主人から連絡を受けました。正確には日付が変わったあとです」

「何時ですか」

「零時十九分」

 詩織は時間を頭の中に刻んだ。

 自分が貴之の呼吸を確認し、死んだと思ったのは零時十四分。

 その五分後である。

「連絡の方法は?」

「メッセージです。『来い』とだけ」

「それまでにも会う予定だったんですか」

 木島の指が一瞬止まった。

「どうしてそう思うんです?」

「質問しているのは私です」

 自分でも意外なほど強い口調になった。

 四年間、貴之と暮らすうちに、相手から問い返されたときには自分が間違っているような気分にさせられる癖がついていた。

 だが木島は夫ではない。

 詩織は視線を逸らさなかった。

 木島は困ったように口元をゆるめた。

「なるほど。貴之が言っていたより、ずっとはっきりした方ですね」

「主人は私を、どう言っていたんですか」

「今は関係ありません」

「では、昨夜のことを」

「……もともと、深夜に短時間会う約束はありました。ただし時刻は流動的でした。あの人は予定を頻繁に変えるくせに、変更の仕方だけは妙に決めたがる人でしたから」

 詩織は壁時計を思い出した。

「十二分ですか」

 木島の顔から、わずかに表情が消えた。

 ほんの一瞬だった。

「何のことです?」

「予定を変えるとき、十二分ずらす。そういう決め方だったんじゃありませんか」

 詩織は紙片を見つけたことまでは言わなかった。

 木島はしばらく黙っていたが、やがて椅子の背にもたれた。

「どこまで知っているんですか」

「あなたが話してください」

「十二分という数字そのものに、大した意味はありません。少なくとも最初は。貴之が勝手に決めたルールです。予定が変わったとき、十二分単位で後ろへ動かす。そうしておけば、第三者が予定表を見ても実際の時刻が分かりにくい、と」

「何のために、そんなことを?」

「人に知られたくない話をすることが多かったからです」

「仕事の話ですか」

 木島はすぐには肯定しなかった。

「仕事だけなら、あんな面倒な真似は必要なかったでしょうね」

 紅茶とコーヒーが運ばれてきた。

 詩織はカップに触れなかった。

「それで、零時十九分に連絡が来て?」

「マンションへ向かいました。着いたのは零時三十分前後です。エレベーターで七階へ上がったところで、ご主人が部屋から出てきました」

 詩織は呼吸を浅くした。

「部屋の中には入っていない?」

「入っていません」

「あなたがドアを閉めたんですよね」

 木島が詩織を見る。

 今度は明らかに警戒が浮かんだ。

「誰かに聞いたんですか」

「答えてください」

「貴之がまともに立てない状態だったので、肩を貸しました。本人が鍵をかける余裕もなさそうだったから、私が扉を引いただけです。オートロックではありませんが、内側のつまみを操作したわけでもない。あの人が鍵を持っていました」

 由香里が見た光景と矛盾しない。

 木島が室内から出てきたのではなく、廊下で貴之と合流し、最後にドアを閉めただけだった可能性がある。

 詩織は、自分が勝手に「木島は部屋の中にいた」と結論づけていたことに気づいた。

「主人はどんな状態でした?」

「顔色が悪くて、呼吸も荒かった。酒かと思いましたが、酒臭くはなかった。私が救急車を呼ぼうと言ったら、必要ないと言われました」

「どうして?」

「本人に聞いてください、と言いたいところですが……もう聞けませんね」

 木島はコーヒーに口をつけた。

「貴之は、自分の身体のことより、会わなければならない相手のことを気にしていました」

「玲奈ですか」

 カップが受け皿に触れ、小さな音を立てた。

 木島は否定しなかった。

「如月玲奈を知っているんですね」

「名前だけなら」

「主人との関係は?」

「それを私から話すと、本人の名誉に関わります」

「人を刺したと自供している人に、今さら名誉ですか」

「だからこそです。逮捕された人間については、何を言っても世間が信じやすい。私はそれが嫌なんです」

 木島の言い方には、それまでとは違う感情が混じった。

 玲奈を庇っているのか、それとも自分が巻き込まれるのを避けているだけなのか、詩織には判断できなかった。

「あなたは主人をどこへ連れていったんです?」

「地下駐車場です。私の車まで」

「そのまま河川敷へ?」

「途中までです」

「途中?」

「駅の北側で降ろしました」

「そんな状態の人を?」

「私も止めましたよ」

 木島の声が少し荒くなった。

「けれど貴之は人の忠告を聞く人じゃないでしょう。奥様なら分かるはずだ」

 その一言に、詩織は返せなかった。

 分かる。

 誰かの言葉を聞くように見せながら、最後には自分が決めたとおりに他人を動かす男だった。

「降ろしたのは何時ですか」

「零時四十分前後です」

「そこから河川敷までは?」

「歩けば十五分ほどでしょう」

 警察が言った「午前一時前後」という玲奈の供述と、おおむねつながる。

 ならば、少なくとも木島の話には時間上の破綻はない。

「どうして警察に出ないんですか」

「その質問は二度目ですね」

「答えを聞いていませんから」

 木島は目を伏せ、親指でコーヒーカップの取っ手をなぞった。

「貴之との仕事には、警察に簡単に見せられない資料がいくつかあります。違法なものという意味ではありません。ただ、顧客や取引先の秘密が多い。警察が会社まで調べ始めれば、関係のない人間まで巻き込まれる」

「人が死んでいるのに、仕事の秘密を心配しているんですか」

「人が死んだからといって、残った人間の生活まで全部壊していいわけじゃないでしょう」

 詩織はその言葉に、思いがけず苛立った。

「ずいぶん都合のいい言い方ですね」

「そうかもしれません」

 木島は反論しなかった。

「でも、あなたも同じでしょう」

 詩織の指がカップの縁で止まった。

「何がですか」

「貴之が死んだからといって、自分まで壊れる必要はないと思っている」

「何を言いたいんです?」

「私は昨夜、あの人の様子を見て分かりました。普通じゃなかった。病気でも酒でもない。何か薬物を摂った人間に見えた」

 詩織は顔を動かさなかった。

 動かせなかった。

 木島は声を落とした。

「それから、貴之は車の中で奇妙なことを言ったんです」

「……何を?」

「『詩織は、俺が死んだと思ってる』」

 店内では、隣の席に座った老人が新聞を折り畳んでいた。入口近くではスーツ姿の二人が午後の会議について話している。

 誰もこちらを見ていない。

 それなのに、詩織には店中の音が一度遠ざかったように感じられた。

「主人が、本当にそう言ったんですか」

「ええ」

「どういう意味で?」

「私が聞き返しても笑っただけでした。あの人らしいでしょう」

 由香里も言っていた。

 体調が悪いのに、貴之は笑っていた。

 知っている側の人間が、知らない相手を眺めるときのような笑い方だった、と。

「それだけで、私が主人を死んだと思っていたと決めつけたんですか」

「決めつけてはいません」

「なら、なぜあんなメッセージを送ったんです?」

 木島は詩織を見た。

「反応を見るためです」

 詩織の胃のあたりが固くなる。

「私が『死んでいなかった理由を説明できる』と送って、あなたが何のことか分からなければ、普通はこう返すでしょう。『どういう意味ですか』と」

 詩織は黙った。

「でも奥様は、意味を尋ねなかった。『どこで話しますか』と返してきた」

 そこまで考えていなかった。

 木島は警察ではない。

 だから油断した。

「安心してください。私はあなたを警察へ突き出したいわけじゃありません」

「安心できる話に聞こえませんけど」

「そうでしょうね」

 木島はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出した。

「ただ、私も知りたいんです。昨夜、貴之に何が起きたのか。そして、あの人が死ぬ前に何を隠そうとしていたのか」

「あなたは何を知っているんです?」

「全部ではありません」

「では、知っている部分を」

 木島は答えず、スマートフォンを操作した。

 そして画面を詩織のほうへ向ける。

 一枚の画像が表示されていた。

 暗い室内だった。

 見覚えがある。

 ダイニングテーブル。

 椅子。

 奥に見えるキッチン。

 昨夜の、自分の家だった。

 撮影時刻は画面の隅に記録されている。

 23:54。

 画像の中央には、背中を向けた詩織が立っていた。

 右手にコーヒーカップを持っている。

 左手は、何か小さなものを握っていた。

「……これは、どこから」

 喉が乾き、声が掠れた。

「それを確かめたいから、あなたに会ったんです」

 木島は画像を消した。

「貴之から昨夜、自動送信されてきたデータの一部です。送信元は、あなた方のリビングに置かれている何かだと思います」

 詩織の頭に、朝から何度も見たものが浮かんだ。

 十二分遅れた壁時計。

 電池蓋の近くにあった細い傷。

 一本だけ潰れかけていたネジ。

 木島は、詩織の顔色が変わったことに気づいたらしい。

「心当たりがあるんですね」

 詩織は答えなかった。

「奥様」

 木島は今度こそ、はっきりと言った。

「昨夜、あの部屋で貴之に何を飲ませたんですか」

 詩織の前に置かれた紅茶からは、もうほとんど湯気が立っていなかった。

 夫は死ぬまで自分を監視していた。

 いや。

 もしかすると、死んだからこそ、その目は今も残っている。

 そして詩織は初めて理解した。

 昨夜の殺人には、自分が知らない目撃者がいた。

 人間ではなく、壁に掛けられた時計そのものが。

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